先週、職場の空き時間に「立法意図を歪められないために」という生臭い事柄を自習していて、すこし哲学の抽象性が懐かしくなり、
幼少期以来めったに触れなかった哲学書を久しぶりに手に取ったのだけれど、読解にあたり、昔は不要だった傍線だの書きこみだのの、汚す作業が必要だと気付いた。
同じ難解な本でも「読書百遍意自ずから通ず」を地で行えた幼くて暇な自分と、今の自分とでは、事情が違う。
街の本屋で新しいものを探しているうち、
20世紀のドイツ語圏ものではハイデガーくらいまでは思い出せるのに、ウィトゲンシュタインは数度読んだまま、名前さえ忘れきっていたことを思い出した。家の書架に残っていないのは、亡父が単身赴任先へ持ち出したか、知り合いに貸したきりか、古本屋へ売ったか、いずれかの理由だろう。
色々親近感を覚える人なので、今度買ってこようと思いつつ心理学コーナーへ行き、クラウディア・ブラックの心的外傷についての本を二冊斜め読みし終えた時点で三時間が過ぎ、閉店時間になったので、帰宅。
余談だが、むかし小学6年の正月、お年玉でNHK高校講座世界史のテキストを買った後、すっかり影響されて「ヘロドトスと司馬遷とイブン・ハルドゥーンとランケくらいまでの歴史書は、学生として必読だろう。」と思ったことを、最近になって、よく思い出す。
といっても当時はネット書店などがなく、また私自身、書店の利用方法についてろくに知らず、
ハルドゥーンとランケが見つからずに足が痛くなるまで探し回った挙句、なぜかトマス・アクィナスを一冊買って帰ってきたのだった。
神学大全もアクィナスも名前以外ろくに知らなかった時代で、要は、家にあったバタイユの著作に似たタイトルに惹かれたのだ。
そして、同心円上をぐるぐる動く(そして、時々飛躍する)スコラ哲学の理屈に目が回り、「人間とはどんなに無益でも、細をうがった論理構築に喜びを感じる本能でも持つのか?」「こんな考察が、なんの救いになるんだ?」と疑いたくなったり、「自分は実は、たいへん馬鹿なんじゃないか?」と思ったりした、苦い記憶がある。
だから何?って、まあ、メモですから。
哲学好きで哲学嫌いなウィトゲンシュタインに対し、勝手な親しみを感じたというような。
=======
おまけ:例の「祭姪文稿」臨書について
反故の大量さにうんざりし、紙幅を節約するためにも、小筆を使い始めた。原本の筆先の擦り切れた質感は、太筆の場合だと百円ショップで求めた荒い羊毛の筆を使うことでそこそこ雰囲気を出していたのだが、小筆は安い物でも微妙に質が良すぎて、まだ上手く行かない。
ちなみに、墨汁のついた古紙は、パルプから黒味を抜くのに手間がかかり、うまく再生紙にならないのでは?と思うので、反故を資源回収に出すのをためらっている。
なぜならやはり小さい頃、自分で実際に試みて、閉口した覚えがあるからだ。よほど暇だったんだろう。
古紙リサイクル施設を併設していた平安朝の宮中って便利だったろうな、と変な羨ましさを感じる。
Recent Comments