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Saturday, 05 July 2008

なかなかウダツが上がらない人・列伝

中学二年の終わりの頃、そろそろ将来の進路を決めるべしという時、管理人は一旦職に就くことを考えました。先生たちに相談したところ、「実際問題として就職先がない」という事で、諦めざるを得ませんでしたが。

当時、十四才と半。実家を脱出できる十八才までは、まだまだ、三年半以上を要します。三年半…と一口に言っても、当時の私からみると、それまで生きた年月の五分の一以上に当たります。主観的には耐え難いほど長い。

以前書いたとおり、管理人の両親は、結婚前から生ける屍みたいな人たちだった、っていうか情緒的な問題を抱えていた人ですが、

その頃の父は、その前の年に癌で死の淵を覗いて以来、何とか前向きに暮らし始めていました。ただし、まだまだ自分自身の世話だけで精一杯という感じで、妻子を構う余裕は、明らかに、無かった。

かつて虚無主義的だったが故に茫洋としていた父が人並みに苦労する様子に、「まるで荘子の、目と耳と鼻と口を穿たれた混沌(※)のようだなあ。」と思ったことを覚えています。

母は当時すでに、実家の身内ほぼ全員とケンカ別れしており、時々職についても、毎回人間関係のトラブルで辞めるような、危うい人でした。

家族を含めて全ての人間を嫌悪していた母は、父が真面目になっても、当然の権利のように軽蔑し続けていました。

兄については、「あの子が生まれたとき、あたし、全然嬉しくなかったんだ」と陰で私に言いながらも、表面だけは、過干渉気味の溺愛を向けていました。

私については、絶縁した身内の姿を重ね合わせて、命がけで否定している、という感じでした。「学問好きな点は祖父そっくりで嫌い」「家事の手伝い方が○○伯母さんにそっくりで嫌い」「お前がお父さんの靴を磨いたりスーツの手入れをしたり車を洗ったりする気遣いも嫌い」「部活や習い事をやりたいと言ったり、楽しそうに気分転換などをする様子が、△△叔母さんに似ていて嫌い」

とにかく最低だ、死ね、と言う感じで。

じゃあどうすれば良いんだ?と思いますが、

小さい頃の、今にも自殺しそうだった母の思い出がある私としては、まじめーに応えるしかありませんでした。

母は愛情こそ皆無な人ですが、なにせ身長150cmちょっとで細っこくて、無垢な笑顔が可愛くて、猫っ毛のゆるふわ天然パーマでお洒落で趣味の良い、知性溢れる女性だったので、人生を諦めて生きて良いとは思えなかった。

そういうふわーっとした人だから、真面目に憎む気分にもなれませんし。

例えば私に向かって「ヒトを一人自殺に追い込むのなんて、簡単なんだからね?」とかいう言葉を自然に掛けてくるセンスも、そのお洒落な生き様の一部か?と思えるくらいでした。

(内向しがちだった怒りを外に表せるようになった母は、その分、快方に近づいてたって事なので、ちょっと嬉しかった覚えもあります。)

ただ、親戚の助けが望めないのは勿論、父や兄や友人は足手まといという孤立状態だったので、ストレスは一入でしたけれど。

家を出ることを諦めた管理人は、頭の中で二つの選択肢を天秤にかけました。

今から遠くで働いて小金を貯めて身を起こし、自由を手に入れるまでの年月の長さと、このまま十八まで親元で過ごして、心身が壊れてから回復できるまでの年月の長さは、大差ないだろう。

そう思うと、少しは納得できました。

それでも私は明らかに落胆していたのか、ある日に国語の先生と漢籍について雑談をしていたとき、史記に出てくる人物に喩えた励ましを頂いたことがあります。

周の太公望は妻の馬千金に不遇な日々を軽蔑されて過ごしたけれど、決して諦めずに己を磨き、大器晩成の形で志を果たした。

秦の張儀のような知性を身につければ、たとえ叩きのめされようが、舌さえあれば生きて行ける……というような。

スケールの大きい励ましに嬉しさを感じるよりも、「長年ウダツが上がらずに、配偶者にまで軽蔑され続けた人々と同じような歳月が、この先に待っているのかー。」と覚悟させられ、苦笑した記憶があります。

最近、陰陽道等を久しぶりにやったり(これだけ真面目にやるのは多分、その頃以来ですね。つまり二十年ぶりか)、

普通の稼業でも攻めの段階に入ったりしながら、ふと、そういう昔を思い出します。

(※)混沌=渾沌とも。当時読んでいた荘子 「応帝王篇」より。

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