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Wednesday, 02 January 2008

知らないことの多さに耐えることが出来る能力。

管理人の中学・高校時代は家庭が一杯一杯で、学校とは、家では得られない休息を得るための場所だったので、

正直言って、学校生活についても授業内容についても、よく覚えていません。

惜しいものを逃したな、と思っています。

そのため今でも新聞等で夜間中学の記事を見かけるたび「いっそ中学から入りなおそうか」と思ったり、あるいは「仕事帰りに、定時制高校に通おうか」と思ったりすることがあります。

効率を考えると自習のほうが勝るはずなので、単なる未練にすぎませんが。

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そんなこんなで先日、参考として、地元の進学校の生徒がどんな勉強をしているか?という新聞記事を読んでいたところ、

ある優等生の、確か学者志望の男子が「自分に知らないことがあるのが許せない」と言って頑張っているのを見て、

何となく不思議な感じがすると共に、

2歳5ヶ月のお正月に買って貰った伝記集にあった、ニュートンの死の間際の言葉を思い出しました。

その子供向け伝記の現物はもうありません。が、元は以下のような文らしいです。

I do not know what I may appear to the world,
but to myself I seem to have been only like a boy playing on the sea-shore,
and diverting myself in now and then finding a smoother
pebble or a prettier shell than ordinary,
whilst the great ocean of truth lay all undiscovered before me.
                                                               

ニュートンの時代に比べ現代の科学が進歩していることは述べるまでもないですが、人間が知っていることよりも、知らないことのほうが遥かに多いのは、今も変わりありません。

「自分に知らないことがあるのが許せない」と頑張って、仮に一分野を徹底的に学んだとしても、それで真理を修得できたわけではなく、まだ荒削りで不完全な「なるべく真理に近い何か」を得たに過ぎません。

それらを大勢で根気強く削り上げ、磨き上げて、徐々に真理に近づけていくのが、恐らく、科学者の営みなんだと思います。(勿論、磨き上げた結果何も残らないことも、間々あります。)

科学者じゃない私が書くのも、なんですが。

ともあれ、折角覚えたものでも、そうやって次から次へと時代遅れになる以上、「知らないことはない」という状態には、決してなれません。

そうである以上、「世界には自分の知らないことが沢山有って楽しいなあ」くらいの、ゆったりとした態度で臨む事が、望ましい気がします。

「自分に知らないことがあるのが許せない」という意地は、ときに「自分に知らないことがあるのを認めたくない」という偏狭さや、安易な結論に飛びつきたがる知的怠慢へと、容易に転化しますし、

そういう自称「学者」がどれほど有害かは、敢えて書くまでもないでしょう。

ただしこの「自分に知らないことがあるのが許せない」という考え方は、小・中・高くらいまでのレベル、つまり、教科書の範囲をひたすら徹底的に修得すれば良い段階では、有利だろうな、とは思います。

その辺は真似しなきゃな、と考えています。

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子供時代の管理人は、覚えている限りずっと、学校教育という奴が嫌いでした。

大抵は「有力な仮説」や「便利な仮定」に過ぎないものを、これが不変の真実だ、唯一の正解だ、という態度で押し付ける不誠実さ(≒頭の悪さ)がそもそも嫌でしたし、

そういう教育で教わった内容を大人になっても引きずって、今現在の目の前の現実よりも昔覚えこんだ大学のテキストを信じるような、自称「学者」「知識人」「エリート」が、その辺にわんさかいるのも嫌でした。

(その意味で『大学には馬鹿しかいない』という母の言葉には、嫌な説得力がありましたね)

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ちなみに、一昨年ニュージーランドで入ったコースは日本で言うと高校から大学一年にまたがるようなレベルの内容でしたが、授業の最初に

「別にここで教えることが真実とか正解とかいう訳じゃなくて、今の時点で、できるだけ真実に近いものを扱っているだけですから。」と謙虚で頭のいい説明があったので、

「じゃあ幾らでも徹底的に覚えてやろうじゃないか!」「こういう教育なら、付いて行っても大丈夫だろう」という気にさせられました。

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ニュージーランドの大学の研究内容のほうが日本の大学の研究内容よりレベルが高い…とは言いません。高校以下に至っては、日本よりゆとり化が進んでいるようですし。

しかしニュージーランドの学校や大学の、先生たちや学生が持つ、上に挙げたニュートンの台詞にも共通する懐の深さや、お互いに無知であることを知る意識から生まれる絶えざる研鑽や、「毎日が下克上」的な活き活きとした雰囲気は、日本では稀有なものに思えました。

日本の場合、明治維新以来

「欧米の最先端の知識・技術を沢山輸入し、唯一の真実として国民に教え込み、鵜呑みにさせる」「この鵜呑み方式に疑問を差し挟む奴は、国の発展の邪魔」

というスタンスがあってこそ、ここまで産業が発達し、欧米に猛追できたわけですが、

産業では既に欧米に追いついた筈の現在になっても、

学術分野では、この鵜呑み方式を好む硬直した態度には、今の所、大きな変化がないように見えます。切り替わったほうが、国の(あるいは科学の)発展のためには、良いと思うのですが。

そのほうが、ギフテッドも暮らしやすくなると思いますし。

なんだかとりとめのない文章ですが、今日はこの辺で。

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