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Saturday, 29 December 2007

卒意と言うこと

藤原行成について先日の記事で、「かな文字よりも漢文のほうが出来が良く見えたりします。なぜだろう。」と触れた後に

ふと思い立って調べた所、現存する彼の作品の内、明らかな真跡は漢字のもののみだとかで、

やはりなあ、と思った。

彼の手になるとされる作品のうち仮名文字は、

例えば、「上手に見せたい」という気負いや「どうです?私の字は巧いでしょう」という気取りの漂うキザな筆跡だったり、

或いは、

まるでウラナリの坊さんか尼さんが、諸行無常を託ちながらも憂き世の見栄に囚われつつ筆写したような、生気もなければ覇気もない、鬱々とした筆跡だったりする。

あれらが仮名文字の鑑として人口に膾炙していると聞いても、これまで私には、どこがどう良いのか判らなかった。

今般彼の漢字をじっくり眺める機会を持って、あの品の良い豪放さや、健康な精神性がありありと伝わる筆致は確かに稀有だと思ったし、この人物と、あの仮名文字の退屈そうな御仁が同一とは、やはり思えない。

要は、「彼の」仮名に漂うキザな暗さが、漢字には全く無いのだ。

習字を始めた頃の書道の先生や、小学校一・二年の担任の先生から教えられて以来、私も重々自戒していることだけれど、

書に限らず全てにおいて、

卒意とは、極めて難しいが、不可欠の要素だと思わされる。

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