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Saturday, 01 September 2007

自分のスキゾイド的な部分

管理人には、他人と群れる趣味がない。必要さえあればそれなりに集団行動が出来るのだけれど、そんな用がない時は、一人でいる時間が至福のひと時だ。

ただ、小学校三年あたりに、偏狭な教師から

「特別な人間なんていないんだから、努力して他の人の見ているテレビを見たりして、話を合わせなさい。最初は無理でも、合わせているうちに楽しくなります」と怒られて、

「それなりに説得力がある。弱い小魚も、群れて身を守るものだし、言われてみれば私にも思い上がりがあった」

と考えて以来、二十数年のあいだ「普通の人」を観察し、可能な限り彼らの性質を学ぼうとしてきた。そうして努力を積み重ね刻苦勉励(注:誇張抜きで)の末、ようやく最近、職場で、他人と

毎日、一緒に昼食を食べられるようになった。去年は一ヶ月に数度だったし、大学の頃は一月に一度くらい、高校の頃は数ヶ月に一度、中学の頃は多分ゼロだったので、着々と進歩していると思う。

まさに努力と忍耐の賜物だと、自分で思ってい「た」。

しかし、やはり、それ以上は真っ平だと思う自分がいる。

「自分には他人に対する興味がない」と実感したことこそないが、実際にこれまでの人生で「この人物についてもっと知りたい」と思ったのは某ミュージシャンのみ、という点を考えると、他の人々が見せる「他人に対する興味」とは、質・量共に桁違いに劣りそうだ。

そもそも、「他人に対する興味」と言う感情自体、良く分からない。大半の人は普段の言動を見ればどんな人間でどんな経験を積んできたか程度の事は明々白々だから、過去の話だの、家族の話だのまで一々詮索したくない、と思うせいもあるのだろうが。

考えてみると私は、寂しいと思ったことが、少なくともこの20数年間、多分、一度もない。去年あたりまで自分の事を「実はさびしがり屋で甘えたさんなんじゃないか?孤独を辛がっているフリだけでもしたほうが人間らしくなれるんじゃないか?」とどうにか考えたこともあったが、考えてみれば単に、二・三歳の頃の自分をネタにして、無理に普通の人ぶっていただけだ。

恋愛だの結婚だのについても、物心付く前から興味がない。他人のめでたい話は、一緒に純粋に喜べるし、祝えるのだが。

少女漫画や女性向け雑誌やテレビドラマの殆どを退屈としか思えないから、無理をして観ても苦痛で、他人と話をあわせるのが難しいし、

以前から時々身辺の人間に済まないと思う事もあり、ある程度大人になってから去年あたりまでは、

「少子化や年金問題が騒がれている昨今、どんなに興味がなかろうが結婚したりするのが人間としての義務なんじゃないか?自分は人として間違っているんじゃないか?」

と疑問を持って辛かったのだが、先日おばたちから「いいよ別に。これまで家族のために頑張ったんだから」と言われ、

ああ、これで安心して、死ぬまで恋愛も結婚もせずに通せるぞ!と嬉しく思っている。

ただ、職場などの集団に属することは、社会生活上、しばしば必要となる。

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ギフテッドで他人と話が合わない事や、小学二年で暴力事件に遭ったことやら身内との色々やら何やら以前に、

3歳頃から分裂質を自称していた程にスキゾイド傾向が強く、他人がなぜ、いつも誰かと一緒に居たがるのか見当がつかない。

他人の見方等を気にできる以上、スキゾイド丸出し、というほどではないのだろうが。

寂しいという感情については、熟考すればボンヤリと分かる気がするが、私個人は友人とは数ヶ月か数年に一度、数分でも話せば寂しくないし、上記の先生の説(「みんな頑張って合わせているんだから」)に大いに納得していたので

私なりの考えで、

多分みんな、「群れるのは嫌だ!!」「一人でいさせてくれ!」という心の悲鳴を懸命にこらえながら、社会の要請で、無理に他人と群れ、無理に話を合わせ、無理に笑い、それを友情や恋愛と呼称しているのだろう、と思っていた。

孤独という貴重な財産を犠牲にし、自分の意思も感情も押し殺してベタベタ馴れ合うというきりのない自己犠牲を、まあ接待や公用や共同作業のような生産的な目的があるならともかく、内心では誰もが嫌がっているに違いないと思っていた。少なくとも私は嫌だし、

あるいは昨今多いリストカットの人だのボーダーラインの人だのは、きっとそういう砂上楼閣のような友情や愛に迎合し続ける人生に疲れ果てているんじゃないか?と感じられることが多いし、

古来、世間のしがらみに倦んで隠遁出家する人々は沢山いるので、

誰もが嫌がっているのだと信じていた。つい昨日まで。

人付き合いの良い人とは、きっと超人的な克己心と忍耐力で人付き合いを嫌う自分を律して明るく振舞っているのだと信じ込み、自分もそうならなくては、と無理をしていた。

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昨夜、書店で性格類型についての一般書を立ち読みしていた時のこと。この手の本に出てくる、障害とは言わないまでもスキゾイド型な人の特徴は大体において「正に私」なので、読むと自分の生を肯定されたような気分になって安心するのだが、

読んでいて驚愕したのが、うち一冊の、以下のような記述だ。

「普通の人は「親しいことは良いことだ」と考えていますが…」

「親しいことは良いことだ」と考えているのか、普通の人!!

瞬間的に筆者の脳裏を、お経とか聖書とかのそういう一節が過ぎった。あれらから推測するに、この「親しい→良い」という倫理観は、ある程度は長い歴史もあって、ある程度、普遍的なのだろう。心底親しいことは(「良い」とまで決め付けるのは論理の飛躍が過ぎるにしても)楽しいことだろうし。

だとすると逆に、良いことだから誰かと親しくしようとするのだろうという推測も成り立つが、管理人は、この思考を、どうしても受け入れられない。

「楽しいこと」と「良いこと/善」、「嫌なこと」と「悪いこと/悪」を混同する粗雑な思考に我慢がならない…というか、論理の破綻以前に感覚としてよく分からないし、

無理に想像しても何だか平板で退屈そうだし、第一、気色悪い。

ともあれ、自分が普通の人と大きく異なり、矯正が難しいことだけは良く分かったので、

少々変人と言われようが無理ばかりせず、もうちょっと自然体で生きたい。

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Comments

>「親しいことは良いことだ」と考えているのか、普通の人!!


そうか!!!
だから、何とか流行を追えないものか、
ペースを合わせられないものか!!
と、頑張ってこなきゃいけなかったのか。

「よいこと」という社会通念があるということを、言葉で表されると、確かに悟りのような衝撃!!!


「よいこと」をしない人に対して、道を正そうとしていろいろなお誘いがあったのか・・・・・

えぇ、ファッション誌読まなきゃいけないなら、
苦手な英語、辞書引き引き読んだほうがマシです。
(必要性を感じ、買ってみたものの手付かず)


でも、
「一人ぼっちでいなきゃいけないなんて、わたし、死んじゃう~」
という人がいるんだから、
「誰かといたら、苦痛」
という人がいても、おかしくない。


ただ、多分、圧倒的に少数派なので
まるで幽霊か超常現象のような扱いをされてしまうのかもしれませんね。


血圧だって、赤血球数だって、「大多数の正常な人」のデータから、大体この辺に入っていればよしとしましょう、
というところを便宜的に正常値としているだけで、
数値的に外れていても正常な人はたくさんいるわけで。

その人に、無理やり薬飲ませるみたいなものですね。


「ふつう」と「正常」は違う。
正常というのも、その個人個人で異なる。

ちょっと忘れてたことを思い出しました。


あと、私見ですが
恋愛なんて実際努力して誰かをワザワザ見つけるというものではなく、
相手との「免疫系」の違い
とか、自己の意思ではどうにもならないことにも左右されるとのコトなので、他人がとやかく言えるものでもないと・・・・

来るときには来る
こないときには気にしない

結果論ですが、そんな気がしました。

Posted by: にはとり | Saturday, 01 September 2007 04:55 PM

>道を正そうとしていろいろなお誘いが
まさしく「正そうとして」という感じですよね。

混じる気がしないのは、そこから際限ない思考停止の匂いを感じるからかもしれません。

ファッション雑誌の「今年は○○がマスト!! もう××はNG!!」という断定口調に似た、「誰だって同じでしょう?同じじゃないアナタはダメだ!」という暗黙の了解があるようで、やはり、どう頑張っても馴染みづらいものです。

そういう流行を追っている人が自分さがしに夢中になるのを見るたび、「ああ、無理して自分を忘れてきた人なんだな」と思いますし。

>こないときには気にしない
世間では「できるだけ沢山ともだちを作って、できるだけ沢山恋をして、できるだけ沢山遊べ」という考え方が流行っていて、乗れない奴は爪弾きっぽいですが、無い感情を有るという嘘をついてまで追う流行ではないだろう、と思います。

今はとにかく勉強が楽しいです。はい。

Posted by: 忘道 | Sunday, 02 September 2007 05:45 PM

スキゾイドから来ました。難しいですよねスキゾイド。
分類が難しい分野で枠組みを作って言葉を当てはめてみただけのようなもので、その枠組み自体も酷く曖昧、一方と他方の意見に違いもあったりする。また、他人から見た印象、で枠組みを作ってしまっているという点でさらに曖昧さを広げる。

〜に4個以上当てはまればあなたもスギソイド、なんて言われても、その人の気分次第ではないかなあ、むしろ誰でも当てはまるんじゃないかなんて思ってしまいます。そう思いつつも、自分もここに属するのではないか、という思いがあります。

自分について、言葉で説明するには他人に定義してもらうのが手っ取り早くわかりやすくて、また、自分が何者なのかというのが分からずに手持ち無沙汰だったり不安だったり、そういうのを解決した気にしてくれるのがこういった分野分けであったり枠組み作りなんでしょうね。それにしても曖昧。

要していいのか要するに、対人関係において怠惰を極めればスキゾイド扱い呼ばわりということになってしまわくもないのかと思います。

Posted by: k | Wednesday, 03 September 2008 08:13 PM

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