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Sunday, 06 November 2005

家族について:父をあえて千尋の谷に突き落とした記憶

051106_0201.jpg先週に実家の庭で採れた葡萄。 そっけ無い背景は、管理人のマンションの部屋。少し写真がぼけているが、ご容赦。

亡父は、死の前々年あたり、庭の片隅に葡萄の苗木を植えた。それが育ち、また、今夏は気候に恵まれたお陰もあり、ようやく、近所におすそ分け出来るほどになった。

亡父は長年、葡萄を植えたがっていた。

わたしは、この植物に対し少々偏見があり、長年、反対し続けていた。いわく、病害虫の防除が大変だ。化学物質過敏の身としてはボルドー液くらいなら許せるけれど、それにしたところで、どこから入手するんだ。目だった花は着けないし、それに、肝心の実だって、たいして取れやしないだろう、と。

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さらにその昔、初めて末期がんの死の淵から生還した年、退院を祝う夕食の席上で、父は、「オレは周囲の全ての人間への憎しみを糧に生き延びた」と、言った。

その発言に対しわたしは、面と向かって「青臭い」と答え、鼻で笑った記憶がある。

当時、”お菓子が食べられるから、父さんの見舞いに行こう”くらいの意識でいた年齢の管理人は、それこそ他人を云々できる大人ではなかった。思うに、わたしがこれまで危機に陥った時の両親のリアクション――わたしの自助努力のみのどん底に、丁寧に落としなおす――を、その幼さの故に、素直に模倣しただけ、なのかも知れない。

この、傍目には親不孝で冷酷な発言について、わたしはあまり後悔していない。彼がその発想で余生を過ごしたなら、不幸が待ち受けていることが、明らかに予測できたからだ。

彼自身の力では、速やかな修正は望めそうにないし、やんわりと訂正できるものでもない。加えて、他人から排除され、あるいは他人を排除して育ってきたわたしの語彙には――とりわけ、工夫や演技というものを知らない幼い頃は――殺伐とした単語以外、他人に掛けられる言葉が無かった。(残念なことに、これは今も大差ないが。)

この病気を境に、彼は生まれ変わった。以来、わたし達は、お互いに、それぞれがおのれの人生の持ち場から逃げることを許さなかった。

傍から見れば、わたしたちは
罵りあい、憎み有っていたように見えるかもしれないが。

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やがて、彼の精神は、逃げ場の無い環境下で鍛えられ、
その成長の速さは、
文字通り成長期のわたしや兄もかくやの、目ざましさだった。かつてはただ幼いばかりだった男が、尊敬できる人間、と言えるまでに成長して行く光景は、そう滅多に見られるものではないと思う。

その後もわたしは、表面的には彼に
憎しみを抱いたことのほうが多いけれど、
それはただ単に、比喩で言うと

同じ空に太陽は二つ要らない
というか、

・二つも太陽があると、自他全てに迷惑
・なので、互いに排除しあっていた

そんな感じだった。

死ぬ少し前、父とわたしの間柄を、二人で総括してみたことがある。戦友みたいなものだね、とわたしはいい、本当にそうだな、と嬉しそうに父は答えた。

父:普段は頼れる。物事を効率よく処理する。但し、窮地からは必ず逃げる。よくも悪くも、ワル知恵が働かない。押し出しの良い大人の男なので、人からいい扱いを受けやすい。

わたし:普段は全くの臆病者だが、修羅場にだけはやたらと強い。奇妙な知識が山のように頭に入っている。策士。女の子なので、人からは殊更に軽く扱われるが、反面、全く警戒されないという利点がある。

性格こそ全然合わないが、背水の陣続きの生活を背中合わせで戦うには大変良いデコボココンビだったし、また、そうすることで、以前は感じることのなかった、互いへの愛着が初めてわいたのだった。

それでも、あまり、生意気なことを言うものではないと、亡父の手植えの葡萄を見ながら、反省した次第だ。余りに反省しすぎて、採ってから一週間も経つのに、まだ食べきることが出来ない。

人生は確かに、先が読めない。

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