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Sunday, 06 November 2005

祖父が大日本帝国の予算を作っていたころ/官僚たちのトラウマ

宮本正於さん、という元厚生官僚の「お役所の掟」シリーズは、
日本のお役所の、一言でいうと「病んだ」
いろいろな風習を、精神分析のプロとして分析した
非常に興味深い著作だ。

ただし重大な難点がある。
精神分析医にはありがちな「職業病」、つまり
対象、この場合は厚生官僚たちと心の距離を置きすぎて、
病気と診断した相手が、表だけでは平気そうでも、
実際は苦しいだろうな、という当然のことへの想像力を欠いている点だ。

宮本さんが急逝して随分経ち、彼からは、それら著書以上の分析は望めない。
そんなわけで、公平を期すため、僭越だが、当ブログ管理人が、
お役所がかつて負った(と思われる)精神的外傷について書いてみたい。

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母方の祖父は、第二次世界大戦前から戦後まで、大蔵省、今で言う財務省にいた。
彼の年齢から察するに、日中戦争は、すでに始まっていただろう。
母からの伝え聞きだと思うが、
戦前・戦中の予算作りについて、以下のようなエピソードを聞いたことがある。

「予算編成の季節、一息吸いに部屋を出ると、
他の省庁の人たちが、真っ青な顔をして待っている。
特に、厚生省(注:現・厚生労働省)の人なんか、泣き出しそうな顔をしていた」

その年に割り当てられた予算を消化しない限り、
翌年、それがどんなに必要になる予定のお金でも、
削られ、軍事費に振り向けられてしまうからだ。

祖父の話はここまでだが、わたしなりに補足してみたい。

仮に、チフスとかコレラとかの疫病対策に割り振られた予算が、
今年は1億円だったとする。
そして今年は、特に怖い病気が流行らなかったので、
1億円が、手付かずで余ったとする。
すると、その1億円分は、翌年キッチリと減額される。

今年はともかく、翌年は赤痢とかの大流行が起きるかもしれないのだが、
その辺は問答無用。
どの予算もギリギリなので、
他の部署から予算を持ってくることも出来ない。
国民の生活を考えて予算を維持してください、なんて公務員らしいことを口に出すと
「アカ」呼ばわりされて、当時の常識として、命が危ない。

残る選択肢は
(1)泣く泣く予算を手放す か、
あるいは、
(2)無理にでも、それがたとえ宴会でも、ぱーっと使ってしまうか。

真面目に仕事をしてきた官僚達としては、
(1)も(2)も、かなり嫌だったと思う。それでとりあえず、数字を扱う大蔵省に、僅かな望みを託したのだろう。

それがダメだと気付いた彼らは、大災害や飢饉が起きようと、先立つものが無い為に死んでいく人々を見なくてはならないから、(1)は選べなかった。

当時の大蔵省は非力だった。
偉いのは軍部だし、
どこかの別のところで予算が決められていたからだ。

どっか別のところ、で予算を決めている人たちは、というと、
彼らだって、戦後に思われたような「極悪人」では無く、
戦争に反対したりしたら、若手将校とか国民の不満で
クーデターを起こされるんじゃないかと怯えていた。

というわけで、官僚たちは自身の良識を信じ、
「一難去ったら、使い込みなんてきちんと止めような」
「他人はどうだか知らないが、僕らだけは甘い蜜に狂わされたりしないさ」「忠臣蔵の大石だって、人の目を欺く為に遊蕩生活を送っても、最後はみごと目的を果たしたじゃないか」と、官僚としての尊厳を捨てた最後の手段に出た。

けれど、

例えていうと、飢えが染み付いてしまった疎開者たちが、食料の豊富なところに逃げ延びたあともしばらくは狂ったように食べ物を溜め込んだり、食べ続けたりするように、戦後も「それ」は止まらなかったのだ。(注:正確に言えば、物資・食糧不足は戦後の一時期のほうが苛烈でした)

祖父はそれがいやだったのだと思う。戦後の一時期、主計畑を出て田舎に帰り、本当に畑を耕そうとしたこともあったらしい。

つづく?

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